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東京高等裁判所 昭和33年(行ナ)7号 判決

原告 倉敷レイヨン株式会社

被告 特許庁長官

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一請求の趣旨

原告訴訟代理人は「昭和三十年抗告審判第二、三一一号事件について、特許庁が昭和三十三年一月三十日にした審決を取り消す。訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決を求めると申し立てた。

第二請求の原因

一、原告は、訴外大杉鉄郎、松本昌一、田辺健一及び大野康次から同人等の発明にかかる「強力性に富むポリビニルアルコール系又はこれを含む合成繊維或はその他の成型物の製造法」につき、特許を受ける権利を譲り受け、昭和二十七年三月十二日これが特許を出願したところ(昭和二十七年特許願第三六六二号事件)、審査官は拒絶の理由を発見しなかつたので、昭和二十九年六月二十五日出願公告をなした。しかるに訴外鐘淵紡績株式会社から特許異議の申立があり、審査官は右特許異議の申立が理由ありとして昭和三十年九月十九日拒絶査定をした。原告はこれを不服とし、昭和三十年十月二十五日抗告審判を請求したが(昭和三十年抗告審判第二、三一一号事件)、特許庁は昭和三十三年一月三十日原告の抗告審判の請求は成り立たない旨の審決をなし、その謄本は同年二月十三日原告に送達された。

二、原告の出願にかかる発明の要旨は、「ポリビニルアルコール系又はこれを含有する合成繊維或はその他の成型物に、熱処理した後アルデヒド基又はケトン基を一箇含む炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド(但しベンツアルデヒドをメタノール、エタノール等のアルコールを主とするアセタール化液を用いて結合させる場合を除く。)又は環状ケトンを結合させることを特徴とする弾力性に富むポリビニルアルコール系又はこれを含有する合成繊維或はその他の成型物の製造法」であるが、審決は、昭和二十六年二月十五日財団法人高分子化学協会出版部発行の「高分子化学」第八巻第二冊第八三頁、第八四頁(以下引用例又は引用刊行物という。)中には、「熱処理後のポリビニルアルコール繊維に対してアルデヒド基一箇を含む炭素数四箇の脂肪族アルデヒドに相当するクロトンアルデヒドを以てアセタール化を行うこと」が記載されており、本件特許願に添付した明細書の記載によれば、前記クロトンアルデヒドとこのもの以外のアルデヒド基又はケトン基を一ケ含む炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド又は環状ケトンに属する物質は、いずれも同効物質として本願方法においては適用されているものであるから、本願方法と前記引用例は、いずれもポリビニルアルコール合成繊維のアセタール化を行うに当り、その使用する処理剤の種類及びその処理方法において、両者は軌を一にするものと認められる。なお本願方法では特に製品の弾性向上効果を目的としたものであつて、その点引用例のものと表現上に差異の存することは認められるが、本願方法では具体的な処理条件の規定がなく、被処理体、処理剤、処理方法がともに引用例と同一である以上、仮令引用例のものが殊更にこの効果について具体的な記載がなくとも、必然的に本願のものと同様の弾性向上効果を伴うものと認めざるを得ないので、その点発明の存在は認められない。従つて本願の発明は、前記引用例に示された刊行物に容易に実施することができる程度に記載されたものであるから、旧特許法(大正十年法律第九十六号)第四条第二号の規定によつて、同法第一条の新規な工業的発明と認めることができない。としている。

三、しかしながら審決は、次の理由により違法であつて取り消されるべきものである。

(一)  引用例にポリビニルアルコール繊維をクロトンアルデヒドで処理することは記載されており、クロトンアルデヒドがアルデヒド基を一箇含む炭素数四箇の脂肪族アルデヒドであることは公知であるが、本願発明で使用するアルデヒド類がクロトンアルデヒドと同効物質であることは、引用例からは全然知り得ない。引用例の示す所は、アルデヒドとしてホルムアルデヒドを使用した場合と、クロトンアルデヒドを使用した場合の単なる比較であつて、しかも「ホルムアルデヒド処理に比べてやや低アセタール化度においても、耐熱水性が出るが大きい相違ではない。繊維の強伸度にも大差なく、又熱処理温度を低下させることもできなかつた」と記載されるのみで、クロトンアルデヒドで処理することによつて、ポリビニルアルコール繊維の最大欠点である弾性の不足を解決し、その弾性を向上し得ることは、この引用例からは全然知り得ない。のみならずクロトンアルデヒド以外の本発明で使用するアルデヒドが同効物質であることは一層知り得ないことで、本発明の発明者等が独自の研究の結果初めて知り得た貴い事実である。

(二)  本発明はポリビニルアルコールを熱処理した後クロトンアルデヒドで処理することにより引用例に記載されていない弾性向上なる効果が得られることを発見したものではない。本発明の方法により、ポリビニルアルコール系繊維の弾力性を改良向上させ、羊毛ないし酢酸繊維程度の優秀な繊維を得ることを根本思想とするもので、上記のようなアルデヒドのうちに、たまたまクロトンアルデヒドが含まれていたというに過ぎない。このクロトンアルデヒドについても、引用刊行物にはポリビニルアルコール繊維の弾性向上の目的でクロトンアルデヒドで処理したのではなく、単にクロトンアルデヒドで処理してみたところ、ホルムアルデヒド処理に比べてやや低アセタール化度においても、耐熱水性が出るが、大きい相違ではないこと、繊維の強伸度にも大差のないこと、熱処理温度を低下させることもできなかつたことを知り得たことを報告するのみで、さして興味ある報告はなされていない。本発明の思想を推考するに足る記載は全然見当らない。本発明は、このような公知例と根本的に異つた思想に立つもので、「引用刊行物に容易に実施することを得べき程度において記載されたもの」ではなく、立派に新規な工業的発明を構成するものと信ずる。

(三)  ただ本発明で使用する処理剤中に、ただ一部引例のものと一致するものがあるのは認めざるを得ない。一致したクロトンアルデヒドを本発明の処理剤中に含ませておくことは、審決におけるような疑義の生ずるおそれもあり、原告のいさぎよしとしないところであるから、抗告審判において、原告は特に旧特許法第七十五条第五項の訂正命令を期待して、クロトンアルデヒドを本発明処理剤から除外しようとして抗告審判請求書に記載した。しかるにこの点について何等審理するところなく、原告が除外せんとした公知事項と軌を一にするものであるとなし、本願発明を旧特許法第四条第二号に該当するものとした審決は審理不尽といわなければならない。

なおクロトンアルデヒドを除外しても発明の構成が認められないというならば、原告は本発明の処理剤中から四箇の炭素を含むアルデヒド全部を除いても差支えない。

このように本発明は引用刊行物記載とは根本的に異なる思想に立ち、引用例は、本発明の思想に全然考え及ばなかつたにもかかわらず、ただクロトンアルデヒドにおいて一致していただけのことによつて、本発明を旧特許法第四条第二号に押し込め、第一条の新規な工業的発明でないとすることは甚だ当を得ないものである。発明育成の一端を荷う審判官が、本発明の優秀性を没却して、唯僅かな一部がたまたま刊行物に記載されていたことによつて、本発明全体を旧特許法第一条の新規な工業的発明と認められないとした審決は当然取り消されるべきものである。

四、被告主張の二に対して次のように述べた。

(一)  本願明細書においては、クロトンアルデヒドを含む炭素数四箇以上の脂肪族アルデヒドと、このもの以外のアルデヒド類、環状ケトン類を、弾性付与の点において同効物質として記載したのであるから、これらを同効物質として認定したことは当然である。原告のかかる認定は、本願明細書によつて初めて知り得た事実である。発明が新規なりや否やを判断するに当つては、公知事実と対比して同効物質なりや否やを判断すべきである。しかるに引用刊行物においてはクロトンアルデヒドがホルムアルデヒドと耐熱水性において同効物質であるということを知り得るに止まり、クロトンアルデヒドが弾力性賦与の効果を有することは全く未知である。引用刊行物の実験者もクロトンアルデヒドによるアセタール化によつてポリビニルアルコール系繊維に弾性を賦与し得るという効果は何等認識していないし、又その効果を利用してもいない。単にクロトンアルデヒドによるアセタール化の実験を行つたに過ぎない。又クロトンアルデヒドによつてアセタール化したポリビニルアルコール系繊維が実用に供されてクロトンアルデヒドによる弾性賦与の効果を利用した事実もない。従つて本願発明における弾性を賦与するクロトンアルデヒド及びその他の処理剤が、引用刊行物における耐熱水性を賦与するクロトンアルデヒドとは直ちに同効物質であると判断することはできない。

審決は「処理剤の種類及びその処理方法において両者は軌を一にするものである。」と述べているが、軌を一にするという以上、目的効果についても審理すべきであるのに、審決は弾性賦与という本願発明の重要な効果については何等首肯するに足る説示を行つていない。本願発明は、アルデヒド基又はケトン基一箇を含む炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド又は環状ケトンを熱処理したポリビニルアルコール系繊維に結合せしめることにより、該繊維の弾性を向上し得るという自然力を発見し、この自然力を利用して完成されたものであつて、アルデヒド基一箇を含む四箇の脂肪族アルデヒド中にたまたまクロトンアルデヒドが含まれているというに過ぎない。引用刊行物におけるクロトンアルデヒドは、ポリビニルアルコール繊維の弾性向上のために使用されたものでなく、同刊行物においてはクロトンアルデヒドの有する弾性向上という自然力は全く未知である。況んやその自然力は何等利用されていない。従つて本願発明は引用刊行物とは目的及び効果を異にするものであるから、クロトンアルデヒドを除外しなくても、新規の発明を構成するに足るものと信ずるが、処理剤中にクロトンアルデヒドを包含するために審決における如き疑義を生ずるおそれもあるので、原告は抗告審判において、これを除外せんとしたものである。

本願の出願当時の明細書には、もともとクロトンアルデヒドは除外されていたのであるから、これを包含するように変更したものが公告決定されたことは、特許請求の範囲が拡張変更されたままで公告決定されたことになるので、原告が再びこれを除外せんとした申出は、当然許さるべきであると思料する。クロトンアルデヒドを除外すれば、審決の理由は根本から変更されることとなるであろう。

(二)  ベンツアルデヒドについては特許異議申立においても、抗告審判においても問題にならず、本訴において初めて持ち出された問題であつて、原告としては敢えて弁論の必要を認めないが、本願明細書の特許請求の範囲においてベンツアルデヒドの除外事項が記載されているので一言する。特許請求の範囲に「ベンツアルデヒドをメタノール、エタノール等のアルコールを主とするアセタール化液を用いて結合させる場合を除く」と挿入したのは、審査官の訂正命令によつて挿入したのであつて、かく訂正することによつて審査官は特許第一五九九六九号明細書に記載する発明とはその差異が十分に判定し得るものとして公告決定したものである。そしてこの訂正事項は特許異議申立においても、又抗告審判においても、本願発明の新規性を否定する材料にはならなかつたのである。本願特許請求の範囲には前記除外事項が記載されてあるにもかかわらず、ベンツアルデヒドがアセタール化剤として公知であることを今更持ち出すことは筋違いである。

なお被告は特許第一五九九六九号明細書において、ベンツアルデヒドによつてアセタール化した場合、ポリビニルアルコール系合成繊維に羊毛状の捲縮を生ずるという記載があるので、これにより弾性的効果が付与されることが窺知できると主張しているが、この主張は全く誤りで、捲縮とは繊維の外形が縮れていることであり、従来の天然繊維では羊毛のみが明瞭な縮れをもつていたので、繊維が縮れていることを羊毛状の捲縮と称したのであつて、これはあく迄も外形的な縮れであつて、肉眼又は顕微鏡で見れば分るものである。然るに繊維の弾性は外観では全く判らず、歪を与えその回復状況を測定しなければ判らないものである。従つて両者に関係があり、一方から他方を窺知し得るということはできない。

第三被告の答弁

被告指定代理人は、主文同旨の判決を求め、原告主張の請求原因に対して、次のように述べた。

一、原告主張の請求原因一及び二の事実は、これを認める。

二、同三の主張はこれを否認する。

(一)  審決において引用例を援用した意図は、本件出願発明の要旨における「ポリビニルアルコール系又はこれを含有する合成繊維或はその他の成型物に、熱処理した後、アルデヒド基又はケトン基を一箇含む炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド(中略)又は環状ケトンを結合させることを特徴とする。」という記載に基き、それに相当する物質(傍線部)であるCH2CH=CH・CHOの分子式で示されるクロトンアルデヒドが、すでに本件出願以前にアセタール化剤として、熱処理後のポリビニルアルコール合成繊維に適用された事実を示さんとするものである。そして審決は「明細書の記載によれば、前記クロトンアルデヒドと、このもの以外のアルデヒド基又はケトン基を一箇含む、炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド又は環状ケトンに属する物質は、いずれも同効物質として本願方法において適用せられるものである。」としたもので、この根拠は、本訴出願の明細書によれば、前記アルデヒド基を一箇含む炭素数四箇以上の相当物質が「パレルアルデヒド……2、ニトロシクロヘキサノン等のケトン類」と具体的に羅列されているので(第九頁から第十二頁)、この記載から、要するに前記一般構造に相当する物質は、いかなる種類のものでも本願方法には適用され、しかもその効果においても同等視し得る所謂同効物質であると常識的に解釈されるからである。

(二)  本件発明は、前記一般構造を有するアルデヒド又は環状ケトンによつて、熱処理後のポリビニルアルコール繊維を処理し、アセタール化又はケタール化することにより、弾力性を改良向上させることを目的とするものであるが、明細書の記載によれば、その特許請求の範囲の項には勿論、発明の詳細な説明特に実施例においても、その具体的方法は従来からこの種工業で行われているアセタール化又はケタール化と何等異るところがなく、このような明細書の記載要領では、本願発明の方法と従来法との差異は唯単に適用せられる具体的な処理剤の種類の差異にとどまるものと認めざるを得ない。そしてこのことよりして、本願発明はこれを換言すれば、特許請求の範囲の項中に記載された一般構造を有するアルデヒド類又は環状ケトンは、従来法の如きアセタール又はケタール化の処理方法をそのまま踏襲して熱処理後のアルコール繊維を処理しても、その弾力性を改良向上せしめ得ることができるものであると解釈できる。したがつて、本願方法に適用せられる一般構造に包含せられるクロトンアルデヒドによつて、熱処理後のポリビニルアルコール繊維をアセタール化した援用公知事実のものは、前記解釈から未処理のものに比して当然その弾力性が改良向上されているものと認めざるを得ない。

そして該援用公知事実の方法が、本願方法と軌を一にするものである以上、本願発明が旧特許法第四条第二号によつて、同法第一条の新規な工業的発明でないとした審決は妥当である。

なお原告は、抗告審判請求書において、旧特許法第七十五条第五項の訂正命令を期待して明細書中からクロトンアルデヒドを除外する意思ある旨を示したに拘らず、審決はこの点について何等審理をしなかつたと非難し、かつ本訴状においては本発明の処理剤中より四箇の炭素数を含むアルデヒド全部を除いても差支えないと主張しているが、元来特許法においては、その新規性の判断は、権利確認審判と異り、その先行技術との比較においてその進歩性を考慮するものであつて、たといクロトンアルデヒドを除外しても、残余の部分とクロトンアルデヒドとは、本願発明では同効物質に過ぎないので、新規性の存在に関しては何等影響するものではなく、また同様に炭素数四箇を含むアルデヒドを全部除外しても、同様に影響がないから、右原告の主張は理由がない。

しかのみならず炭素数七箇のベンツアルデヒドによりポリビニルアルコール系合成繊維をアセタール化することが、特許第一五九九六九号明細書に示されているが如く、本件出願前既に公知である事実からして(原告は意識的に特許請求の範囲の項には、該アセタール化剤に関する点は除外している。)炭素数七箇のベンツアルデヒドがアセタール化剤として公知であり、しかも該特許明細書の記載をみるに、該アセタール化剤により、ポリビニルアルコール系合成繊維は羊毛状の捲縮を生ずる。換言すれば、いわゆる弾性効果が付与されるものであることが窺知できる点よりして、これを引用刊行物の記載と併せみて、炭素数四或は七箇のアルデヒド類がアセタール化剤として適用できる以上、当然その前後の炭素数を有するアルデヒド類もアセタール化剤として適用可能であることが帰納推測され、しかも同様にその効果も憶測できることは、本件特許出願当時のこの種技術常識から容易であると認められる。

第四証拠〈省略〉

理由

一、原告の主張の請求原因一及び二の事実は、当事者間に争いがない。

二、右当事者間に争いのない事実及びその成立に争いのない甲第二号証(本件特許出願公告に記載された明細書)の記載を総合すると、原告の出願にかかる本件発明の要旨は、「ポリビニルアルコール系又はこれを含有する合成繊維或はその他の成型物に、熱処理した後アルデヒド基又はケトン基を一箇含む炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド(但しベンツアルデヒドをメタノール、エタノール等のアルコールを主とするアセタール化液を用いて結合せる場合を除く)又は環状ケトンを結合させることを特徴とする弾力性に富むポリビニルアルコール系又は之を含有する合成繊維或は其他の成型物の製造法」にあることを認めることができる。

(尤もその成立に争いのない甲第一号証及び甲第六号証と前記各事実とを総合すると、原告が当初特許願に添付した明細書の「特許請求の範囲」の項は、「ブチルアルデヒド、イソブチルアルデヒド又は炭素数五ケ以上を有する脂肪族アルデヒド、アルキル置換芳香族アルデヒド又はナフタリンアルデヒド等の芳香族アルデヒド類又はそのアセタール類又はアセトフエノン、ベンゾフエノン、テトラヒドロキノン、シクロヘキサノン等の環状ケトン類等によりアセタール化又はケタール化することを特徴とするポリビニルアルコール系合成繊維又はこれを含有する合成繊維或はその他の成型物の製造法」と記載されていたが、特許庁長官から「(前略)ベンツアルデヒドでアセタール化する場合は出願前公知であるから、特許請求の範囲をベンツアルデヒドの場合を除くよう訂正されたい。」との訂正書の差出を求められ、「特許請求の範囲」に先きに認定したような除外事項を記載し、また「発明の名称」も、当初は「ポリビニルアルコール系合成繊維又はその他の成型物の製造法」とあつたが、その後「弾力性に富むポリビニルアルコール系又は之を含有する合成繊維或は其他の成型物の製造法」と訂正されたことが認められる。)

三、一方当事者間に争いのない事実とその成立に争いのない甲第五号証によれば、審決が本件出願にかかる発明の新規性を否定するために引用した財団法人高分子化学協会出版部発行の「高分子化学」第八巻第二冊は、本件出願前の昭和二十六年二月十五日発行にかかるもので、これには「摂氏二百十五度で五分間熱処理を施したポリビニルアルコール繊維を塩化水素―塩化ナトリユーム浴でクロトンアルデヒドにより繊維状アセタール化を行う。」ことが記載されていることが認められ、右クロトンアルデヒドが、本件発明の要旨に掲げられた処理剤の一である「アルデヒド基を一箇含む炭素数四箇の脂肪族アルデヒド」に該当することは、原告の認めるところである。

しかも本件出願の方法における熱処理の温度及び反応媒体等の種類には何等の限定もないから、前記引用刊行物に記載されたポリビニルアルコール合成繊維のアセタール化は、本件出願の方法において使用する処理剤の一を用い、同一の方法においてなされるものといわなければならない。

もつとも右引用例に記載するところは、ポリビニルアルコール合成繊維のアセタール化について、クロトンアルデヒドとホルムアルデヒドを使用した結果を、アセタール化時間、アセタール化度、沸騰水に対する性質について比較検討し、前者による処理の結果は「ホルムアルデヒド処理に比べてやや低アセタール化度に於ても、耐熱水性が出るが、大きい相異ではない。繊維の強伸度にも大差なく、又熱処理温度を低下させることも出来なかつた。」との実験結果を報告したものであり、原告代理人はこの事実から、「右引用刊行物の記載からは、クロトンアルデヒドで処理することによつて、ポリビニルアルコール繊維の最大欠点である弾性の不足を解決し、その弾性を向上し得ることは、これからは全然知り得ない。」と主張する。

しかしながら前記甲第一号証(当初特許願に添付した明細書)の「発明の詳細なる説明」中における「ポリビニルアルコール系合成繊維は、現在工業的には繊維に成型後熱処理し、ホルムアルデヒドでアセタール化している。この合成繊維の性質は、相当優秀ではあるが、未だ改良を要する点も多々ある。その第一に挙げられるべきは弾性の向上であろう。(中略)本発明者等はこれらの点に関し、詳細に検討した結果、アセタール化が耐水性、耐熱性のみでなく、その他の性質に顕著な影響があり、従つて適当な構造のアルデヒド又はケトン等を用いることにより、これらの性質を改良し得るであろうことを知つた。」とし、出願の方法によつて得られた最も顕著な効果は、「高度の撥水性と羊毛又は醋酸繊維素繊維にも匹敵する弾性である。」との記載及び表に示された「ホルムアルデヒドによる場合弾性度は一%の伸長率において七〇ないし八三%、三%の伸長率において五四ないし五八%であるのに対し、ブチルアルデヒド及びイソパレルアルデヒドの各場合においては、それぞれ一%において九〇ないし九三%、九四ないし九八%、三%において六〇ないし六五%、六八ないし七一%である」旨の記載を総合すれば、従来行われたポリビニルアルコール系合成繊維のホルムアルデヒド(アルデヒド基一箇を含む炭素数一箇の脂肪族アルデヒド)によるアセタール化は、ある程度の弾性度の向上を行い、これにより同繊維に通有のしわになり易い欠点除去の効果を挙げて来たが、まだそれでは十分といえなかつたので、本件出願の方法により、更にこれを改良、向上せしめ「羊毛にも匹敵する」弾性を有せしめるものであること、換言すれば、従来該合成繊維になされたホルムアルデヒドによるアセタール化は、もちろん他の効果をも伴つたであろうが、弾性の賦与によりポリビニルアルコール系合成繊維の持つしわになり易い欠点除去の効果を持つことが公知であつたと推断される。そしてこのことは、前記明細書中に記載された表によつて認められるホルムアルデヒドによる場合、アセタール化度の上昇と共に弾性度はほぼ向上している事実並びに先に認定したように当初特許願に添付された明細書(甲第一号証)における「発明の名称」は、単に「ポリビニルアルコール系合成繊維又はその他の成型物の製造法」とし、後に訂正された明細書(甲第二号証)における「発明の名称」のように「弾力性に富む」なる語句が冠せられていないこと、及び右甲第一号証によれば、当初の明細書中「発明の詳細なる説明」において、出願人は、従来高級なアルデヒド類によるアセタール化が殆んど行われなかつた大きな理由は、「これらのアルデヒド類の水に対する溶解度の低下」、「これらの高級アルデヒド類によるアセタール化物の軟化点の低下」、「アセタール化物の耐水性、耐熱性の不良」の三点であつたが、本件発明者等はこれを解決した点を最も強調し、前述の「撥水性の付与」、「弾性の向上」は、むしろ副次的に主張されていることによつても裏付けられる。

してみればすでにアルデヒド基一箇を含む脂肪族アルデヒドによるアセタール化が、たとい低度にもせよポリビニルアルコール系合成繊維に対し弾性賦与の効果を有することが知られている以上、同性質を向上せしめることを目的とする本件出願の方法において使用する処理剤の一を用い、同一の方法による処理を行う引用刊行物の記載からは、たといこれに弾力性向上の効果が明瞭に記載されていなくとも、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者は、右の効果をも含めて本件発明の内容を容易に知ることができたものと解するの相当とする。

四、以上は引用刊行物に記載されたクロトンアルデヒドについて説明したものであるが、本件出願発明における処理剤である「アルデヒド基又はケトン基を一箇含む炭素数四箇以上の脂肪族、芳香族、脂環式及び複素環式アルデヒド(中略)又は環状ケトン」のうちには、右のクロトンアルデヒドが含有されるものであることは、前項において述べたところであるばかりでなく、本件明細書(甲第二号証)によれば、前記処理剤中クロトンアルデヒド以外の物質もこれと同効物質として適用されていることが明らかで、本件出願の方法は、旧特許法第四条第二号により新規な工業的発明ということができないものといわなければならない。

五、原告はクロトンアルデヒドを本発明の処理剤中に含ませておくことは審決におけるような疑義を生ずるおそれがあり、原告のいさぎよしとしないところであるから、抗告審判において特に旧特許法第第七十五条第五項の訂正命令を期待してクロトンアルデヒドを本発明処理剤から除外しようとして抗告審判請求書に記載したのに、審判官はこれを不問に附したことを非難し、その成立に争いのない甲第三号証によれば、原告代理人は、抗告審判請求書の末尾に同様の記載をしたことを認めることができるが、原告の出願にかかる発明において、クロトンアルデヒドが他の処理剤、すくなくとも他のアルデヒド基を一箇含む炭素数四箇の脂肪族アルデヒドとその作用効果において、特にこれを区別すべき理由は、本件明細書からは全然これを知ることができないから、審判官が原告の所期するような訂正を命じなかつたことを非難するのは当らない。

更に原告は本訴にいたり「クロトンアルデヒドを除外しても発明の構成が認められないというならば、本発明の処理剤中から四箇の炭素を含むアルデヒド全部を除いても差支えない」と主張するが、本訴は審決時を基準として審決が違法であるかどうかを判断するものであるから、当審にいたりなされる右の主張は採用の限りでない。

六、以上の理由により、本件出願にかかる発明は、旧特許法第一条の発明と認めることができないとした審決は結局相当であつてこれを違法とすべきでないから、これが取消を求める原告の本訴請求を棄却し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八十九条の規定を適用して、主文のように判決した。

(裁判官 原増司 山下朝一 多田貞治)

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